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とある都市生活者の独白

東京に暮らす大学院生が思いつきでブログを書いています

「準当事者」としての私について

こころ

友人が「自分は卑怯だったのではないか」と内省していた。議論を吹っかけられた際に自身の生い立ちを持ち出して相手の意見を否定してしまったからだという。それを「卑怯」だと感じる後ろめたさがよく理解できる。私の場合は家族の話をされる度にそれを感じる。アウティングするか、嘘をつくかという二択を強いられているように思われるからだ。上記の友人のようになるのを恐れて、10年以上に渡ってずっと嘘をつき続けてきた。

私には高機能自閉症の弟がおり、特別学級を経て障害者雇用で特例子会社に勤めている。母は育児不安と幼少期のトラウマと夫婦間不和から重度のうつ病を発症した。もう一人の弟は、(素人診断は禁忌なのだが) スキゾイドパーソナリティ障害に一致する傾向があり、いじめと転校を繰り返してきた。父はこうした家庭状況に理解を示すことができず、酷い時に週に3日は夫婦喧嘩をし、何度も離婚話が出た末に別居となった。距離を置くことである程度改善された部分もあるが、弟たちは自室に篭っているし、現在は私自身が家族から距離を置いて1年になる。もう既に過去のことだが、未だにものすごい罪悪感に苛まれて眠れないことがある。

それでは、私は何者なのか。最近知られ始めたきょうだい児とかアダルト・チルドレンという表現は今のところしっくりきていないが、定義的にはこれらに該当するようだ。ただ、弟は重度の障害者ではないし、親から明白な虐待を受けたわけでもない。結局、もっと大変な人がいるということに負い目を感じるので、自助グループなどに参加しようとはあまり思えなかった。そして、必要がなければリアルな人間関係で明かすことはほとんどない。

だけど、家族内で親密なコミュニケーションが取れない孤独感と、自分がいないと親密な空間が成り立たないという危機感はあった。親に反抗したりとか、弟と軽快な会話をしたりとか、そうした普通の家族がなく、普通の人にはなれなかったという気持ちがある。多くの子どもにとって本来所与のものである家族が、自分の手によって維持されなければならないのが苦しかったのは事実だし、家族の話をされる度に一番深刻だった「12歳の私」の問題が放置されていることを思い出す。

身近な他者の問題に向き合わざるを得ない人、つまり「当事者」になれなかった「準当事者」がもう少し注目をされても良いと思う。明白に差別されたり不平等を被ってきた「当事者」は、その従属的なカテゴリーを逆手に取って連帯することができる。こうした社会運動も途上なのは確かだ。だけど、声を上げる力を持たず、規範的な人間像に翻弄されて孤立している人はいる。私自身、きょうだい児という概念を知らない精神障害の当事者にこの話をしてしまったことがあり、「頑張って支えてあげてね」と言われて後悔したことがある。仕方がないのでヘラヘラ笑って対応した。他者の痛みを何らかのカテゴリーに割り当てなければ理解できないという、想像力の限界を感じることがしばしばある。

前回、「聞こえの良い言葉」について書いた時に感じていた鬱屈は、理想にばかり目が向いて現実の分かりあえなさを取りこぼす無批判な態度に対するものなのかもしれない。

springsee-underthetree.hatenablog.com

聞こえの良い言葉の背景にある不都合

社会

最近スライドなどで発表を行う機会が多い。そうした場面において、世間の感情に訴えかける素敵な言葉は本当にウケが良いし、競争的資金の書類を書く時にもそういう言葉が求められているように思われる。だけれども、小難しく繊細な問題を「共感」「実践」「議論」「現場」といった進歩主義的な言葉で一括してしまうことに対して危惧するところがある。

たびたび、世間で反復されている紋切り型の文句を「聞こえの良い言葉」に変形する技術ばかりが、培われてしまうのではないかと不安になる。情報の手段と受け手を想定してメッセージを伝えるのだから、誰にでも分かりやすい簡潔な表現が望まれる場合は多いし、それ自体は悪いことではないのかもしれない。だけど、それが自分で考え抜いた末に現れた言葉ではなく、何かに盲従する時の都合の良い選択のために用いられる言葉だということを忘れがちだ。つまり、「見えざる手」のような何かに喋らされ、動員されているという感覚が抜け落ちてしまう。

だから、そうした素敵な言葉の裏にどのような「不都合」があるのかを考えるべきなのではないか。機があって、とある震災の展示施設を訪問した時に支援する側の人とそのようなことを話した。展示内容が震災発生から復興に至るまでのサクセスストーリーとして描かれ、最後に「人間」や「地域の絆」の素晴らしさが謳われていることに違和感を覚えたのである。その場所と時間を生きた当事者ではないのだが、実際にはもっと色々なことがあったのではないかと思った。震災によって共同体意識が高まる一方で、その醜い要素が剥き出しになることはあるのではないかと。誰かにとって満足な形を追求すれば、誰かに不満足を押し付けることになる。全員が仲良く上手くいったということはないだろう。

このように批判的に見ると「現場感覚がない」と逆に批判されることが多い。確かに私自身に直接的に関わる問題ではないので、当事者から見るとどこか冷笑的に映るのかもしれない。当事者の発する声を大事にしたいという「現場感覚のある人」の優しさはよく分かるのだけれども、全ての事象について共感できる人などいないという前提が抜け落ちていることが多い。結局、問題Aに関心を持っている人が問題Bに対してはまるで理解がないことがあるわけで、個人の経験だけを元にして理想形を考えるのは難しいのではないかと思うのだ。「経験を大事に」という近年の語り口も、単に主観的だからと言うわけではなく、一つの個別具体的な事例を肯定的に捉えることで理想形が見つかることはないことを見落としている。そのように体現されている時点でそれは理想ではなく、必ず批判されるべき部分があるのだと思う。それを考えることをやめてしまうと、共通性は失われて分断が深いものになるような気がする。

高学歴の劣等感について

こころ

英会話教室で大学名を聞かれて躊躇した。前のアルバイト先で「高学歴は頭でっかちだから仕事ができない」とあからさまに嫌味を言われたのを思い出したからだ。大学名を答えると「こんなところ (初級者コース) にいちゃダメだよ!」と言われた。つい「いやいや、本当に大した事のない人間なので」と卑屈な態度で返してしまった。空気を悪くしてしまった。否定する対象が間違って伝わってしまった気がした。そうは言っても、何と返せば良かったのかが思いつかず、結果何を返しても疎外感が生じることだけが分かった。どちらも悪気はないのだが。ただ、「高学歴はお高く止まっている」というイメージだけが独り歩きしている社会が息苦しい。

単なる印象論でしかないのだが、このイメージに反して、私みたいに (いわゆる学力に関する) 自己評価のそれほど高くない高学歴者は普通に多いと思う。高校までにどういう自我が形成されたのかは最終学歴以上の意味を持つからだ。例えば、有名大学の上位合格校のほとんどが首都圏の中高一貫校で占められていることが問題化している。すると、少なくとも中学校の段階で同レベルの人間ばかりが集められるのだから、学校の中で常に優秀であったという「優等生経験」がある人はこの段階で少ない。まして、私のいた地域は中学受験熱が高かったので「優等生経験」を知らない。学力についてお高く止まれるほどの自信を持った高学歴者なんてほんの僅かの天才だけで、学歴よりも学校内での順位の方がよほど人格に影響を及ぼしているような気がする。

無条件に自分自身を認めることができない環境で自尊心を育むのは難しい。何をするにしても単一の価値尺度しか持たないと「上には上がいる」ということになり、ここから抜け出すために比較優位で自分自身を保つという選択肢を取ることになる。音楽やスポーツが得意だとか、モテるとか、道化を演じるのが上手いだとか。そういう形で周囲から承認される人がほとんどなわけで*1、多元的な価値尺度で物事を見る余裕を生じさせる。どんな学校コミュニティであっても同様に、そうした秩序を共有することで共存を図ろうとする。サークル名が大学生の肩書になるのも、バンドサークルなら「あの人はギターが上手い」とか、落語研究会なら「あの人は落語が上手い」といった比較優位から来るものだと思う。だから、あまり「勉強ができる」という自己評価をしている人はいないのではないか。学歴や企業名という特別意識に訴えかけることで劣等感を回避しようとする人もいるわけだけれども、内面に「何の取り柄もない」という強いコンプレックスを抱えているようにも見える。こうしてみると、外から見て満たされているように見える人と本当に満たされている人は少し違うような気がする。

そういえば、大学院入学後は業績という単一の価値尺度で教養を武器に「これから殺し合いをしてもらいます」と言われているような気がして、進学直後は先に見たような劣等感に苛まれていた。だけど、実際に見ていると「あの人はインタビュー調査が得意」とか「あの人は○○に詳しい」とか多様性に富んでいるわけで、自分の持ち味を見つけられれば良いなと思えるようになってからは少し気が軽い。

*1:いわゆる「君は○○が得意なフレンズなんだね!」というやつではないか…と書き終わってから気付いた。

小分けされたバファリンプレミアム

生活


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私は偏頭痛持ちだ。初めて発症したのは中学生の頃で、あの脈を打つような痛みも酷いものだが、吐き気を催すこともある (というか昔はよく吐いてた)。普通に健康的な生活を送っていれば問題ないのだが、締切直前で無理のある生活を続けていたりすると今でも発作が出る。原因がストレスなのか生理的なものなのかは分からないが、病院では「血管が広がることで痛み成分が大量に放出される」と説明されたような気がする。

不幸か幸いか、私の場合には前兆がある。視野がチカチカして狭まっていく不思議な症状で「閃輝暗点」というらしい。必殺技のような格好良い名前である。それが終わると光や音に敏感になって偏頭痛が起きる。そうなってしまうと、家に帰って寝ないと治らない。しかしながら、その症状の間にバファリンなどの市販の頭痛薬を服用することで発作を食い止めることができる。

ただ、私は忘れっぽい性格で、頭痛薬を携帯しそびれていることが多い。なので、発作が起きると一目散にドラッグストアに駆け込む。2錠あれば事は済むのに、泣く泣く1000円ほどの20錠入りの頭痛薬を買う羽目になる。経済的にはそれほど困らないのだが、薬が増える一方で減らない。いずれにしても、常備薬として薬箱に入れておいて家族全員で共有するのならちょうど良い量なのだが、独身世帯だと確実に余る。使用期限は2年ほどあるのでなかなか捨てられない。ちなみに黄色のベンザも同様の理由で自宅に溜まっている。

ところが、先日、何の気なしに薬局付きのナチュラルローソンに寄ったら、ビニール袋に小分けされたバファリンプレミアムを見つけた。4錠で200円ほど。ちょうど1日分の量だけが入っている。見た目は無料配布している試用品のようだが、箱がないのでかさばらない。まさしく私が求めていた完璧な商品である。風邪薬とは違い、鎮痛剤は頭痛だけじゃなく生理痛や歯痛にも使われるので需要があり、いち早くこうした新商品が出たのだろうかなどと感動し、本末転倒だが買ってみた。

他の店では見たことがなかったので調べてみることにした。大なり小なり話題には上っているのではないかと思った。しかしながら、「バファリン 4錠」でGoogle検索してもオーバードーズの話しか出てこないし、ライオンのウェブサイトの商品ラインナップを見ても20錠と40錠しか記載がない。なぜなのか。流石に薬剤師がバッタモンを売っているとは思えないのだが、あらゆるところを調べても「小分けされたバファリン」の情報が出てこない。エリア限定とかで発売しているというわけでもなさそうだ。だとすれば、ドラッグストア以外の薬局では普通に売られているものなのか。不思議だ。

ちなみに、薬の小分け自体にはそれなりにニーズがあるようで、場所によっては実際に (非合法に) バラ売りされていることもあるらしい。

二値的思考について

社会

突然、司馬遼太郎にかぶれた知り合いから「藩閥政治は実は色々良いこともしたから、今の政権も積極的にやれば良いと思う」というようなお話を1時間ほど聞かされて少しうんざりした。そのスノッブ精神に対してもだが、社会・経済・政治の状況がまるで異なる現代にそれがそのまま適応可能だという素朴な考え方に唖然としてしまった。「なぜそう思うの?」と繰り返し聞いても「客観的にそうだから」と言われて、返す言葉が見つからなかった。自分が話したい話をしているだけで、対話をする用意がないようだった。

歴史は不変であってその解釈は客観的であると信じて疑わない人が意外と多くて心配になる。彼らは、歴史が現在の観点から解釈されたものに過ぎず、集合的記憶を元に再構成されたイメージだとは考えない。歴史の断面図の微細な部分を再現することは難しく、その多くはステレオタイプによって補完されている。明白な事実があったとしても、他の要素については価値的な解釈が生じる。まして、それが政治的な議論にまで発展するならば、「なぜそう考えるのか」をより慎重に吟味する必要がある。それをしないと、好きか嫌いか、良いか悪いかの独善的な語りになってしまって対話にならない。

こうした二値的思考は、イデオロギーの本質的な批判に関わる問題ではなくて、客観的事実よりも自身の感情を優先させる時代的風潮に関わる問題だと思う。具体的には「反知性主義」とか「ポピュリズム」とか「ポスト・トゥルース」とかと呼ばれているそれである。情報が個人最適化されることで「見たいものだけを見る」ということができるようになって以来、他者との対話を通じて多様な観点から自分の意見を批判的に捉える能力が失われてしまいがちで、「どの観点において正しいのか」という参照点がなくなるから、支持か不支持か、右か左かという極端な分極化が生じてしまう。そういう光景をよく目にする。

だけど、実際にはどれほど知識が豊富であっても把捉できないほどに複合的な要因によって社会は成り立っていて、白か黒かを決断できるケースなどは稀なのではないか。だとすれば、政治的意見を持つ時にはそれ相応の覚悟が必要になるし、相手と対話をするための「なぜそう考えるのか」を自分の中に持っていなければならないと思う。意外とこういう謙虚な態度を維持するのは難しいんだけれども、どこか頭の隅に置くだけでも不快がられることはないような気がする。先に挙げた話が単純に「明治維新ってかっこいいよね」とかという話だったらすごく盛り上がると思うんだけれども、軽率に政治批評みたいな話に結びつけてしまうとどこか白けてしまう。

プレミアムフライデーに関する素朴な疑問

社会

昨日は喫茶店がいつもより混んでいた。噂の「プレミアムフライデー」で早々に退社した会社員が暇を持て余していた。学生身分である私は毎日がプレミアム (だと思われがち) なわけで直接は関係しないのだが、単純にイベントとして非常に興味深く思ったので、色々と考えてみた。

www3.nhk.or.jp

プレミアムフライデーは、政府と経団連が提唱している、月末の金曜日に早期退社を促すキャンペーンである。電通社員の自殺を発端に「働き方改革」が政策課題として意識されてきた中で色々と注目を集めたようだ。

だけど、この企画は「働き方改革」としてはインパクトが弱い気がする。そもそも長時間の労働を前提とせざるを得ないような企業がプレミアムフライデーを取り入れることは難しいだろう。友達の新聞記者が「結局残業時間を減らしても仕事の量は変わらないし、仕事柄難しいよね」と言っていた。奇しくも昨日は経団連との交渉で連合が残業時間上限月100時間を容認したことが報じられており、なかなか長時間労働の構造自体を変えることができないことも明るみに出てきた。

そんな中で、プレミアムフライデーが「働き方改革」の一環であるかのように言われているわけだが、その本来の目的はデフレ改善を狙った消費喚起・内需拡大だと明記されている。そして、飲食業や旅行業などサービス産業の人達はむしろ普段よりも働かざるを得ないことも既に指摘されている。こうした産業は非正規雇用が多いこともあって、得をするのは限定された優良企業の正社員だけということになる。長時間労働の割合が高いのは企業への帰属意識の高い正社員だと思うので、労働時間に関する意識の改善にはなるのかもしれないが、人的リソースを増やして全体的な残業時間を減少させるという「働き方改革」の目的とはあまり関係がないと思う。

一方、プレミアムフライデーが家族と家で過ごしたり市民活動に参加するような契機となることも想定されているようだ。ならば、年末年始のように店を全部閉めて、コミュニティ意識を高めるようなキャンペーンのあり方も可能だとは思うのだが、すると消費はむしろ停滞してしまうことになる。結局、「働き方改革」と消費喚起は両立し得ない問題に思えてしまう。

このキャンペーンで「働き方改革」が進められているかのような印象を与えているが、その内実はやはり商業的なキャンペーンに過ぎないのだろう。「クリスマスには家族にプレゼントを」「バレンタインに恋人にチョコを」というようなことを百貨店や旅行代理店に代わって政府が打ち出しているだけにも思える。既にプレミアムフライデーを導入できるほど余裕のある大企業が生産を抑え、その社員が消費を通じて不振な産業に財を再配分しているということでもあるのだろうか。だけど、毎月末金曜日に忙しくなる非正規雇用者の給与にその利益が還元されるのかも不明瞭だ。

いずれにしても掛け声だけでナンセンスな感じがする。それがゆえにキャンペーンなのかもしれないし、そういう意味では残業時間を減らそうと言うのも、やはり仕事の総量は変わらないのだから掛け声に過ぎない。一方、実際に「頑張ることを頑張る」タイプの人が出世することで会社内の秩序が長時間労働に傾くこともあるわけなので、それが働く人の意識を変えることもあるのかもしれない (長時間一緒にいる人ほど高く評価される傾向をハロー効果と言うらしい)。だけど、「働き方改革」で重要なのが人的リソースの不足と作業効率の低さであるとすれば、いかに出産などの理由で正社員のライフコースから外れた非労働者を活用できるのか、いかに無駄な会議や移動時間を減らしてメリハリをつけられるのかが課題であって、あまり本質的ではない話題によって曖昧にされることがないと良いなとも考えさせられる。

うつ病の友達との付き合い方を考えている

こころ

最近、友人や先輩にうつ病の診断を貰う人が多い。退学や休職も多い。私の場合、親がうつ病で、私自身も一度だけ小児うつの診断を貰ったことがあるので、幼い頃から馴染みがある言葉ではある。とはいえ、家族と友人では付き合い方が異なるので、正直戸惑う点も多い。色々と考えてしまう。

うつ病は管理職を中心に中年層が発症しやすいが、非定型うつは若年層に多い。こちらはメディア界隈では「新型うつ」という俗語でも呼ばれるので誤解も多いが、本来はDSMにも掲載された列記とした診断名である。いずれにしても、メランコリー親和型性格と呼ばれる責任感の強い真面目な人ほどリスクは高いわけで、「根気がない」とか安易な精神論に帰されるべきではない。糖尿病など「身体的」な病気と同じく、神経伝達物質の異常により、気分が本人の意に反してコントロールできなくなる「病気」なのだから、病気は病気として外在化しなければならないというのは基本だと思う。

家族ならば十分に寄り添う余地がある (無理解な家族が悪い要因となる場合もあるのだが)。だけど、友人が診断されたことを明かしてくれた時には、どういった言葉をかければ良いのかが分からない。接し方に関してよく言われるのは、「頑張れ」「早く治りますように」などと励ますのは逆効果であるということ。自分のペースで治せば良いのだし、大事なのは安息を取ることだろう。だから、自分で自分を責める人を見ると「そのままでいいんだよ」と伝えたくなるものだが、もしも私が逆の立場だったら普段通りにしてほしいし、仲の良い友人が急に優しい態度になるのはわざとらしくて嫌だと感じるだろう。だけど、どこかで優しい言葉をかけてほしいのかもしれないとも思う。やはり友人がSNSで「カウンセリングを受けても、マニュアル通りにオウム返ししてるのが分かると辛くなる」と言っていたけど、その通りだと思う。私も大学院入学後の辛い時期に学生相談室に駆け込んだことがあるが、「辛かったんだね」と言われてもどこか白けてしまったのを覚えている。

結局のところ、相手がどう感じるのかは分からない。「うつ」と言っても非定型を含めて色々なパターンがある。少なくとも、本人の感じている抑うつ状態は主観的な苦痛であって、それを客観的な原理でアドバイスしようとするのは無理解になってしまう。「よくあることだよ」などと自分の経験から語るのも同じかもしれない。そもそも「薄情だと思われたくないから何かする」というのも利己的な考えだし、やはり相手が話すのを待って聞くしかないのだろう。そうやって何も言えずに距離を置いてしまうこともある。大学時代にサークルを辞めた後に自殺してしまった知り合いがいるので、どうしても「友達だから何かしないと」と焦る気持ちも強いのだが、「友達だからこそ気長に待つ」のが正しい選択だと信じてみる。