とある都市生活者の独白

東京に暮らす大学院生が思いつきでブログを書いています

「昭和生まれにしか分からない」が分からない

どうでもよい話を長々と。インターネット上で「昭和生まれにしか分からない」「今の小学生は知らない」という文言を耳にするたびに違和感を覚えるので、その感覚をかなり主観的に掘り下げてみた。

www.buzzfeed.com

例えば、この記事とは違うソースだが、カセットテープと鉛筆の写真に「昭和生まれにしか分からない」と書かれたツイートが流行していた。だが、私の記憶が正しければ、21世紀以降もしばらくはカセットテープが一般的に使われていたはずだ。テープの中身を引き出してグシャグシャにして怒られて、鉛筆でくるくる回して戻して。むしろ、ポケベルやPHSフロッピーディスクなんかが当時「平成」を象徴するものとして捉えられていたとすれば、意外とこの類のクイズ自体が的を外している感じもある。

1989年以降に何かと「ポスト」という接頭辞が付くから、この時期を境に「昭和」が終わったという考え方はある程度説得力を持っているが、文化に関して言えば、平成になって28年が経つ現在も昭和の遺物があちこちにある。カセットやVHSもそんなところで、とかく連続性がある。63年も続いた「昭和」の文化を一括りにしようとするのも、どこかチグハグになってしまう気がする。例えば、『クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲』や『20世紀少年』の中で「昭和」を象徴しているのは、大阪万博を中心とする1970年前後の文化。一方で、ブームを代表する映画『ALWAYS 三丁目の夕日』は東京タワー完成直前の1958年が舞台となっている。最近は平成に跨るバブル文化までもがそうした「昭和」のイメージの文脈で語られるようになってきた。こういったことを考えると、戦後復興からバブル崩壊に至るまで、絶妙に指示する時代のイメージが異なる使い勝手の良い言葉として、「昭和」は「平成」の中で再構成されてきたのではないだろうか。

だからこそ、最近になって「昭和」ブームが「昭和生まれ」と書き換えられた点は興味深い。昭和を生きていた人ではなく、昭和に生まれた人というこの緩和制限は一体なんなのだろう。昭和63年生まれはまだ29歳ぐらいの若者だし、平成生まれの「昭和」であるということに憧れを抱く若者と大差がない。動画投稿サイトにアップされている膨大な映像は生まれる前の文化にも触れられるタイムマシンで、体験を伴わない知識を得ることもできるようになった。「昭和」と呼ばれるものは単に一過性の流行だけじゃなくて、より大きなイメージを体現していて、それがゆえに平成生まれの人間をも魅了しているように感じる。それだけに「昭和生まれ」を「平成生まれ」から手続き的に差別化する言説にはなにか残念さがある。

私自身もそうした古い文化が好きな若者の一人だが、昭和文化が現代の文化よりも魅力的なのは、それが「共有可能な文化」だったことだと思う。皆が同じ文脈を共有しているということ。それは同質的で国民国家的だと批判されることもあるわけだけれども、誰もが島宇宙の中で生きていて互いに分かりあえない時代において、一つの消費のジャンルとして残っている。その用法が「昭和生まれにしか分からない」という差異的な表現となるならば、それが本来持っていたそうした良さは失われてしまう。「生きてない時代について何も知らないんだから」となっては不毛ではないだろうか。大袈裟かもしれないけれども。