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とある都市生活者の独白

東京に暮らす大学院生が思いつきでブログを書いています

二値的思考について

突然、司馬遼太郎にかぶれた知り合いから「藩閥政治は実は色々良いこともしたから、今の政権も積極的にやれば良いと思う」というようなお話を1時間ほど聞かされて少しうんざりした。そのスノッブ精神に対してもだが、社会・経済・政治の状況がまるで異なる現代にそれがそのまま適応可能だという素朴な考え方に唖然としてしまった。「なぜそう思うの?」と繰り返し聞いても「客観的にそうだから」と言われて、返す言葉が見つからなかった。自分が話したい話をしているだけで、対話をする用意がないようだった。

歴史は不変であってその解釈は客観的であると信じて疑わない人が意外と多くて心配になる。彼らは、歴史が現在の観点から解釈されたものに過ぎず、集合的記憶を元に再構成されたイメージだとは考えない。歴史の断面図の微細な部分を再現することは難しく、その多くはステレオタイプによって補完されている。明白な事実があったとしても、他の要素については価値的な解釈が生じる。まして、それが政治的な議論にまで発展するならば、「なぜそう考えるのか」をより慎重に吟味する必要がある。それをしないと、好きか嫌いか、良いか悪いかの独善的な語りになってしまって対話にならない。

こうした二値的思考は、イデオロギーの本質的な批判に関わる問題ではなくて、客観的事実よりも自身の感情を優先させる時代的風潮に関わる問題だと思う。具体的には「反知性主義」とか「ポピュリズム」とか「ポスト・トゥルース」とかと呼ばれているそれである。情報が個人最適化されることで「見たいものだけを見る」ということができるようになって以来、他者との対話を通じて多様な観点から自分の意見を批判的に捉える能力が失われてしまいがちで、「どの観点において正しいのか」という参照点がなくなるから、支持か不支持か、右か左かという極端な分極化が生じてしまう。そういう光景をよく目にする。

だけど、実際にはどれほど知識が豊富であっても把捉できないほどに複合的な要因によって社会は成り立っていて、白か黒かを決断できるケースなどは稀なのではないか。だとすれば、政治的意見を持つ時にはそれ相応の覚悟が必要になるし、相手と対話をするための「なぜそう考えるのか」を自分の中に持っていなければならないと思う。意外とこういう謙虚な態度を維持するのは難しいんだけれども、どこか頭の隅に置くだけでも不快がられることはないような気がする。先に挙げた話が単純に「明治維新ってかっこいいよね」とかという話だったらすごく盛り上がると思うんだけれども、軽率に政治批評みたいな話に結びつけてしまうとどこか白けてしまう。