とある都市生活者の独白

東京に暮らす大学院生が思いつきでブログを書いています

高学歴の劣等感について

英会話教室で大学名を聞かれて躊躇した。前のアルバイト先で「高学歴は頭でっかちだから仕事ができない」とあからさまに嫌味を言われたのを思い出したからだ。大学名を答えると「こんなところ (初級者コース) にいちゃダメだよ!」と言われた。つい「いやいや、本当に大した事のない人間なので」と卑屈な態度で返してしまった。空気を悪くしてしまった。否定する対象が間違って伝わってしまった気がした。そうは言っても、何と返せば良かったのかが思いつかず、結果何を返しても疎外感が生じることだけが分かった。どちらも悪気はないのだが。ただ、「高学歴はお高く止まっている」というイメージだけが独り歩きしている社会が息苦しい。

単なる印象論でしかないのだが、このイメージに反して、私みたいに (いわゆる学力に関する) 自己評価のそれほど高くない高学歴者は普通に多いと思う。高校までにどういう自我が形成されたのかは最終学歴以上の意味を持つからだ。例えば、有名大学の上位合格校のほとんどが首都圏の中高一貫校で占められていることが問題化している。すると、少なくとも中学校の段階で同レベルの人間ばかりが集められるのだから、学校の中で常に優秀であったという「優等生経験」がある人はこの段階で少ない。まして、私のいた地域は中学受験熱が高かったので「優等生経験」を知らない。学力についてお高く止まれるほどの自信を持った高学歴者なんてほんの僅かの天才だけで、学歴よりも学校内での順位の方がよほど人格に影響を及ぼしているような気がする。

無条件に自分自身を認めることができない環境で自尊心を育むのは難しい。何をするにしても単一の価値尺度しか持たないと「上には上がいる」ということになり、ここから抜け出すために比較優位で自分自身を保つという選択肢を取ることになる。音楽やスポーツが得意だとか、モテるとか、道化を演じるのが上手いだとか。そういう形で周囲から承認される人がほとんどなわけで*1、多元的な価値尺度で物事を見る余裕を生じさせる。どんな学校コミュニティであっても同様に、そうした秩序を共有することで共存を図ろうとする。サークル名が大学生の肩書になるのも、バンドサークルなら「あの人はギターが上手い」とか、落語研究会なら「あの人は落語が上手い」といった比較優位から来るものだと思う。だから、あまり「勉強ができる」という自己評価をしている人はいないのではないか。学歴や企業名という特別意識に訴えかけることで劣等感を回避しようとする人もいるわけだけれども、内面に「何の取り柄もない」という強いコンプレックスを抱えているようにも見える。こうしてみると、外から見て満たされているように見える人と本当に満たされている人は少し違うような気がする。

そういえば、大学院入学後は業績という単一の価値尺度で教養を武器に「これから殺し合いをしてもらいます」と言われているような気がして、進学直後は先に見たような劣等感に苛まれていた。だけど、実際に見ていると「あの人はインタビュー調査が得意」とか「あの人は○○に詳しい」とか多様性に富んでいるわけで、自分の持ち味を見つけられれば良いなと思えるようになってからは少し気が軽い。

*1:いわゆる「君は○○が得意なフレンズなんだね!」というやつではないか…と書き終わってから気付いた。