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とある都市生活者の独白

東京に暮らす大学院生が思いつきでブログを書いています

聞こえの良い言葉の背景にある不都合

社会

最近スライドなどで発表を行う機会が多い。そうした場面において、世間の感情に訴えかける素敵な言葉は本当にウケが良いし、競争的資金の書類を書く時にもそういう言葉が求められているように思われる。だけれども、小難しく繊細な問題を「共感」「実践」「議論」「現場」といった進歩主義的な言葉で一括してしまうことに対して危惧するところがある。

たびたび、世間で反復されている紋切り型の文句を「聞こえの良い言葉」に変形する技術ばかりが、培われてしまうのではないかと不安になる。情報の手段と受け手を想定してメッセージを伝えるのだから、誰にでも分かりやすい簡潔な表現が望まれる場合は多いし、それ自体は悪いことではないのかもしれない。だけど、それが自分で考え抜いた末に現れた言葉ではなく、何かに盲従する時の都合の良い選択のために用いられる言葉だということを忘れがちだ。つまり、「見えざる手」のような何かに喋らされ、動員されているという感覚が抜け落ちてしまう。

だから、そうした素敵な言葉の裏にどのような「不都合」があるのかを考えるべきなのではないか。機があって、とある震災の展示施設を訪問した時に支援する側の人とそのようなことを話した。展示内容が震災発生から復興に至るまでのサクセスストーリーとして描かれ、最後に「人間」や「地域の絆」の素晴らしさが謳われていることに違和感を覚えたのである。その場所と時間を生きた当事者ではないのだが、実際にはもっと色々なことがあったのではないかと思った。震災によって共同体意識が高まる一方で、その醜い要素が剥き出しになることはあるのではないかと。誰かにとって満足な形を追求すれば、誰かに不満足を押し付けることになる。全員が仲良く上手くいったということはないだろう。

このように批判的に見ると「現場感覚がない」と逆に批判されることが多い。確かに私自身に直接的に関わる問題ではないので、当事者から見るとどこか冷笑的に映るのかもしれない。当事者の発する声を大事にしたいという「現場感覚のある人」の優しさはよく分かるのだけれども、全ての事象について共感できる人などいないという前提が抜け落ちていることが多い。結局、問題Aに関心を持っている人が問題Bに対してはまるで理解がないことがあるわけで、個人の経験だけを元にして理想形を考えるのは難しいのではないかと思うのだ。「経験を大事に」という近年の語り口も、単に主観的だからと言うわけではなく、一つの個別具体的な事例を肯定的に捉えることで理想形が見つかることはないことを見落としている。そのように体現されている時点でそれは理想ではなく、必ず批判されるべき部分があるのだと思う。それを考えることをやめてしまうと、共通性は失われて分断が深いものになるような気がする。